#03 メンデルスゾーンの音楽
WEB特設ページ第3弾の今回は、私たちが演奏会の第一部で演奏する「野に歌う六つの歌 第二集 Op.48」を作曲したF.メンデルスゾーンについて紹介したいと思います。
メンデルスゾーンの幼少期 〜早熟な天才〜
フェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディ(1809〜1847)は、ハンブルクに生まれたユダヤ系ドイツ人の作曲家です。
彼を一言で表すならば、音楽史上、モーツァルトと並ぶか、それ以上の「早熟な天才」と言うことができるのではないでしょうか。
彼は、哲学者を祖父、裕福な銀行家を父として生まれ、母親から音楽の手ほどきを受け、10歳のときにゲーテの友人でベルリン・ジングアカデミー校長ツェルターに師事し、
バッハ、モーツァルトらの音楽についても系統的に学び、15歳で交響曲第1番、翌年にはオペラ『カマーチョの結婚』を完成させました。
L.V.ベートーヴェンが交響曲第1番を30歳で作曲したこと、オペラ『フィデリオ』(決定稿)の初演が44歳であったことなども考慮すると、
メンデルスゾーンがいかに早熟であったかがうかがえます。
ブルジョア・インテリの彼の両親が息子に授けた教育は尋常ではありませんでした。父は数学とフランス語、母は文学、美術、ピアノを担当しており、
9歳のときには公開演奏会を開いています。当時彼が書いた詩には、5時に起床してラテン語と古代ギリシア文化、朝食後に算数、11時からチェロとヴァイオリン……と、
勉強漬けの日課が記されています。このように、彼は、音楽だけでなく、文学や数学、地理や歴史、絵画やスポーツなど、あらゆる分野にわたって高水準の教育を授けられ、
幅広い知識と教養を身につけました。ドイツ語、フランス語、イタリア語を話し、画家や詩人の教えも受けて画才と文学的才能にも恵まれ、
さらには、肖像画に残る通り美男子でもありました。
彼は、12歳の時にはゲーテを訪問しています。腕試しのつもりで即興演奏とフーガの初見演奏をさせたゲーテは仰天し、彼を私邸に2週間滞在させ、
毎日その演奏を聴くことを日課にしたと言われています。
このように、メンデルスゾーンは、凡人には考えられないような素晴らしい環境のもと才能を開花させ、何の不自由もなく、幸せに成長しました。
15歳のクリスマスには、祖母からJ.S.バッハの『マタイ受難曲』の写筆スコアをプレゼントされます。
このことは、音楽史上の偉業であるマタイ受難曲"復活"の布石となりました。
それでは、次に、メンデルスゾーンの成し遂げた偉業について見ていきましょう。
メンデルスゾーンの成し遂げたこと 〜過去の音楽の発掘と再演〜
ドイツ・ロマン派を代表する作曲家であるメンデルスゾーンは、多くの名曲を残しています。ホ短調の『ヴァイオリン協奏曲』や、交響曲『スコットランド』『イタリア』、
ピアノのための『無言歌集』などが有名です。有名な『結婚行進曲』は、作曲者の名を知らずとも、誰もが耳にしたことがあるはずです。
ここで、メンデルスゾーンの偉業について触れたいと思います。それは、先ほど予告した、J.S.バッハの『マタイ受難曲』の復活演奏です。
当時バッハは一般にはほとんど忘れ去られており、バッハの音楽は過去の産物とみなされていました。しかし、その音楽に魅了されたメンデルスゾーンは、
バッハの作品研究に没頭し、1829年、彼が 20歳のときに、この長大な受難曲の実に100年ぶりの歴史的再演を成し遂げました。
この公演の大成功を皮切りに「マタイ」はドイツのあちこちで再演されるようになり、そしてそれはバッハ復活運動へと繋がっていきます。
もし、この時にメンデルスゾーンがマタイを復活演奏していなかったら、現代の私たちがバッハについて知ることはなかったかもしれません。
メンデルスゾーンの葛藤とその作風
メンデルスゾーンは、ユダヤ人の家系に生まれましたが、一家はキリスト教に改宗します。というのは、ユダヤ人というだけで迫害されることがあったためです。
キリスト教改宗は当時のドイツ社会にユダヤ人が同化していくための一つの道でしたが、彼はその後もなお、ドイツ人からはしばしばユダヤ人として扱われ、
一方、正統派ユダヤ人からは非同胞と見なされました。彼の父は、改宗を記念して「メンデルスゾーン・バルトルディ」と改姓しましたが、
フェリックスはあまりこの姓を使いたがらなかったようです。
彼と同時期の作曲家には、F.ショパン(1810〜1849)やR.シューマン(1810〜1856)などがいますが、メンデルスゾーンは、
ショパンの憂愁やシューマンの幻想的で狂気ともとれる美といったようなものを持たず、古典的なバランスを保っているように感じられます。
彼の美質は、明朗で伸びやかな旋律で発揮されたのです。
自分がドイツ人なのか、ユダヤ人なのか、といった彼の内面の葛藤は、創作の際、分裂を強調するのではなく、
逆に、完璧な調和を求めて苦闘する方向に進んだのが特徴であると考えられます。
野に歌う六つの歌について
今回私たちが歌う『野に歌う六つの歌 Op.48』は1839年に作曲されたものです。彼は《野に歌う六つの歌》を生涯で3つ作曲しており、
今回は一昨年「第九」演奏会で演奏した第1集に続いて、第2集を演奏します。
この歌曲集は、太陽すら見ることの出来ないつらく厳しい冬の寒さがようやく終わり、再び訪れる春の喜びを歌ったものです。
すみれやさくら草やヒバリといった花や鳥が、歌詞の中で春のモチーフとして使われます。そして6曲目で季節が移り変わり、秋となります。
ここでは再び訪れる冬に対する心の陰りや寂しさといった愁いが表現されています。しかし最後では、さらにその先にある春への希望を持って、この曲集を終えています。
おわりに
ここまでメンデルスゾーンの生涯や作品について見てきました。メンデルスゾーンの生きた背景を知ることで、私たちの演奏する『野に歌う六つの歌 Op.48』についても
より理解しやすくなるのではないでしょうか。第4回の特設コーナーでは、交響曲とはどういう音楽なのか、という解説をしていきます。是非ご覧になってみてください。
(文責:語学・学術部)