#04 交響曲の誕生から確立へ
はじめに
これまでベートーヴェン、シラーの『歓喜に寄す』、メンデルスゾーンについて取り上げてきました。この第4回では、
今回演奏するベートーヴェン交響曲第9番ニ短調『歓喜に寄す』をよく理解するために、そもそも交響曲とはどのような音楽なのかということを、お話したいと思います。
交響曲は「器楽作品における最高峰の音楽」、「コンサートの主役」などと言われることがあります。
そのように呼ばれるまでにいたった交響曲とはいつどこで生まれ、どのような生涯を辿ったのかを追っていきたいと思います。
交響曲の起源 〜交響曲の成立と発展〜
1607年、C.モンテヴェルディ(1567-1643)のオペラ『オルフェオ』が演奏されました。
グレゴリオ聖歌に起源を持つ西洋音楽は、声楽を主流としたものでした。『オルフェオ』の序曲は、器楽器の活躍の場を拓き、交響曲の源泉となりました。
そしてその演奏は、オーケストラの可能性を見出しました。『オルフェオ』では、それまでにあったどの楽曲よりも多くの楽器が寄せ集められました。
現実世界を描くリコーダー、冥界を描くトロンボーンなどの金管楽器、天国を描くハープ。劇の内容に関連付けられて集められた楽器たちがオーケストラとなっていったのです。
17世紀の終わり頃、A.スカルラッティ(1660-1725)はオペラの斬新な序曲を書き上げました。三部分から成り立つこの曲は「シンフォニア」と呼ばれました。
これは「イタリア風序曲」とも呼ばれ、「交響曲」の起源となりました。
この「シンフォニア」はオペラのはじまりを告げる音楽として誕生しましたが、やがてオペラから独立して演奏会のはじまりを告げる音楽として歩みだしました。
前古典派時代の作曲家たち
対位法や通奏低音の多用に特徴付けられるバロックから変化が生まれた前古典派時代。
マンハイム、ミラノ、ウィーン、パリという4つの地域が中心となったこの時代に、他の音楽と同様に「シンフォニア」も新たな試みが行われていきました。
作曲家たちが数々の創意的な作品を書きあげたこの時代のたくさんの作品が、ハイドンやモーツァルト、ベートーヴェンの生み出す古典派交響曲の基礎となりました。
前古典派の代表的な作曲家たち
- C.Ph.E.バッハ(1714-1784)
- J.C.バッハ(1735-1782)
- J.シュターミッツ(1717-1757 マンハイム)
- G.B.サンマルティーニ(1700/01-1775 ミラノ)
- G.Ch.ヴァーゲンザイル(1715-1777 ウィーン)
- J.ショーベルト(1735頃-1767 パリ)
- L.モーツァルト(1719-1787)
古典派の時代と形
ウィーン古典派の第一人者F.J.ハイドン(1732-1809)は「交響曲の父」と呼ばれます。彼が残した交響曲は番号の与えられているものだけで、104曲あります。
そして、何より彼がこう呼ばれる由来は、交響曲の「形式」を確立した点にあります。
先に述べたように、グレゴリオ聖歌に起源をもつ西洋音楽は、声楽曲が主流でした。器楽曲との一番の違いは、「言葉」の存在です。
聴衆は、言葉を頼りに音楽の物語に惹かれ、記憶に残していきました。器楽曲が受け入れられるためには、言葉に代わるものが必要でした。
それが「形式」です。形式があることで、聴衆は今どの部分を聴いているのかを知ることができました。
反対に、作曲家は聴衆が予想する展開を、じらしたり、予想を裏切ったりすることが可能になりました。
初期においては、交響曲の楽章は3楽章と4楽章が混在しているのですが、次第に4楽章形式に定まっていきます。
ハイドンは交響曲の第3楽章にメヌエットと言われるフランスの舞曲に起源を持つ踊りの音楽を採用するようになりました。
また、ハイドンは交響曲の第1楽章に「ソナタ形式」を採用しました。
ソナタ形式とは、[提示部]・[展開部]・[再現部]という三部形式の音楽の形式のひとつです。
提示部:主調とそれに対比する調とで曲のテーマともなる主題を描く。
展開部:その主題を素材にさまざまな演奏をする。
再現部:最初に登場させた2つの主題を共に主調で演奏する。
ソナタ形式は非常に好まれました。作曲家からも、聴衆からもです。それはきっと単純な面と複雑な面の二つが混在していたからだと思われます。
提示部と再現部は、主調とその対比される調で演奏されるわかりやすさがあり、展開部では短い間隔の中さまざまな調で演奏されるつかみにくさがありました。
それは地域や時代を超えて、聴衆の知的好奇心や芸術的感性をくすぐる構造でした。
古典派時代には、W.A.モーツァルト(1756-1791)もいました。彼は、生涯で41曲の交響曲を書き上げました。モーツァルトは8歳で最初の交響曲第一番変ホ長調を書きました。
モーツァルトには幼少期から父親と各地を旅して演奏をしていました。その演奏会のはじまりを告げる音楽として交響曲を作曲しました。
そのため、一言でいうならばモーツァルトにとって交響曲とは「聴衆が気軽に聴ける音楽」でした。
そのような性格を持っていたモーツァルトの交響曲に、第25番ト短調を境に大きな変化が現れました。それは単なる気晴らしの音楽ではなく、
モーツァルトの溢れる創作意欲の表れた作品でした。それ以降、モーツァルトはさまざまな取り組みをしました。
中でも第38番ニ長調『プラハ』ではバロック時代に最盛期を迎えてから使われなくなってきていた対位法を交響曲の形式の中に組み込んだというのは目を張るものがあります。
そして、さまざまな試行錯誤の末にモーツァルトは3つの交響曲を書き上げました。第39番変ホ長調、第40番ト短調、第41番ハ長調『ジュピター』は三大交響曲と呼ばれます。
古典派とロマン派を跨ぐ巨匠
ベートーヴェンの交響曲〜古典派からロマン派へ〜
L.v.ベートーヴェン(1770-1827)の交響曲作品の創作活動において、古典派交響曲の確立者であるハイドンとモーツァルトの存在は、
コンプレックスとなっていました。曲数で比べてみても、ハイドンが104曲、モーツァルトが41曲の交響曲を書き上げたのに対して、
ベートーヴェンは9曲しか作曲していません。しかし、その2人の交響曲作品に勝る作品を作曲するために、構想を練りに練ったベートーヴェンは、
交響曲の歴史の上でかけがえのない作品を書き上げました。第1番は古典派交響曲の形式にのっとっており、また第8番もそれに近い形式です。
ほかの器楽曲の分野でもそうですが、ベートーヴェンはソナタの枠組みを拡張し、そのなかに彼自身の個性を注ぎ込んでいきました。
彼のほとんどの交響曲作品では、第3楽章にメヌエットではなくスケルツォという形式が用いられています。
このスケルツォは、メヌエットと速さや拍子も同じですが、より気紛れでより奔放な性格をもっています。
最後の交響曲第9番ニ短調では順番が逆になって、スケルツォが第2楽章になり、ゆっくりとした緩徐楽章が第3楽章に置かれました。
彼の交響曲のうち、第3番,第5番,第6番,第9番の4曲では、古典派時代の通常の楽器編成に含まれない楽器を加えて作曲しました。
初の5楽章編成である第6番は、『田園(Pastoral)』という名前で愛称されており、ロマン派の特徴である標題音楽の起こりとなる交響曲でもありました。
第9番ではよりいっそう古典派の伝統から離れて、多くの付加的な楽器(ピッコロ,コントラファゴット,4本のホルン,3本のトロンボーン,トライアングル,
シンバルやバス・ドラム)がオーケストラに採り入れられ、最終楽章では独唱と合唱が加えられました。
ロマン派交響曲 ベートーヴェンの与えた影響
ベートーヴェンはそれ以降の作曲家が意識せずにはいられないほどの金字塔を打ち建てました。
ベートーヴェンと同時代以降の作曲家たちは交響曲に対してどのように接したのでしょうか。
ロマン派の時代は、おもだった作曲家はそのほとんどが「交響曲」という題の曲を作曲しました。
それは既にこの時代の作曲家たちにとっては交響曲は作曲家としての実力を遺憾なく発揮するものとして、
交響曲の地位が「器楽作品における最高峰の音楽」になっていたのです。
また、ロマン派の時代は、音楽史という観点から古典派からの相違というよりも発展という見方ができます。
古典派の時代にできた形式から、作曲家が個人の独自性を磨いた時代でした。
そのためどのような特徴があるのか、作曲家と交響曲について見ていきたいと思います。
F.シューベルト(1797-1828)
交響曲第4番 ハ短調『悲愴』
交響曲第7(8)番 ロ短調『未完成』
交響曲第8(9)番 ハ長調『グレート』
「歌曲の王」として『魔王』『ます』といった小作品から『冬の旅』といった連作など数々の歌曲で知られるシューベルトも交響曲を残しています。
彼の交響曲の作品の代表として交響曲第8(9)番ニ長調『グレート』が挙げられます。この作品はベートーヴェンの第九が初演された翌年に作曲されており、
その影響を受けシューベルトが創りあげた大交響曲です。
H.ベルリオーズ(1803-1869)
『幻想交響曲』
標題交響曲『イタリアのハロルド』
劇的交響曲『ロメオとジュリエット』
1830年、フランスで『幻想交響曲』ハ長調が誕生しました。この交響曲はベートーヴェンの第6番『田園』のように各楽章に標題が与えられています。
第1楽章『夢、情熱』、第2楽章『舞踏会』、第3楽章『野の風景』、第4楽章『断頭台への行進』、第5楽章『魔女の夜宴の夢』。
作曲家ベルリオーズは、その交響曲に今までとは一線を画したオーケストラの編成を指示しました。牧童の吹く角笛、魔女の姿、断頭台への足取り、雷鳴の轟きなど、
楽器でさまざまなものを表したのです。ここで交響曲は、交響曲の起こりであるモンテヴェルディ『オルフェオ』に回帰されたのです。
また彼は、旋律によってある登場人物を表す「固定楽想(id&eacte;e fixe)」という手法を編み出しました。
これは後の数々の作品に影響を与え、交響曲にとどまらずオペラなどにも及びました。
F.メンデルスゾーン(1809-1847)
交響曲第5番『宗教改革』
交響曲第4番 イ長調『イタリア』
交響曲第2番『讃歌』
交響曲第3番 イ短調『スコットランド』
メンデルスゾーンは第5番までの交響曲を書きました。特に第2番以降はどれも名作と呼べるものです。交響曲第5番『宗教改革』、
第4番『イタリア』、第2番『讃歌』、第3番『スコットランド』の順で書かれました。彼の交響曲の特徴は、独自の楽章構成、コラールの使用などが挙げられます。
R.シューマン(1810-1856)
交響曲第1番 変ロ長調『春』
交響曲第2番 ハ長調
交響曲第3番 変ホ長調『ライン』
交響曲第4番 ニ短調
シューマンは、初期においてはほとんどピアノ曲に専念していました。1840年、クララ・シューマンとの結婚の年を境にあらゆる分野の作曲をするようになりました。
交響曲は、その例にもれず、交響曲第1番変ロ長調『春』は1841年に書かれ、同年メンデルスゾーンの指揮のもと初演されました。
また、シューマンにとって交響曲を書く大きなきっかけになったのは、1839年彼自身によるシューベルトの交響曲『グレート』のスコアの発見だとも言われています。
『グレート』のような推進力のある壮大な音楽であるのと、同時に文学的教養の深かったシューマンらしい、詩を読むかのような音楽が特徴です。
F.リスト(1811-1886)
ファウスト交響曲
ダンテ交響曲
リストは、何曲かの交響詩を書きあげた後に、標題交響曲を書きました。
その最大傑作が『ファウスト交響曲』です。
第1楽章『ファウスト』、第2楽章『グレートヒェン』、第3楽章『メフィストフェレス』と題をつけています。これは『ファウスト』の物語ではなく、
登場人物を音楽の中に生きた者として音楽に表現したのです。
R.ワーグナー(1813-1883)
交響曲第1番 ハ長調
ワーグナーは、19歳の時に交響曲第1番を書きました。その後、交響曲を書こうとしたものの第2楽章の冒頭までで終わっています。
ワーグナーは、交響曲と向き合ってあらためて楽聖ベートーヴェンの交響曲の偉大さに気付いたのです。交響曲の分野は完成されていて、
ワーグナーの求める新しさはもはや求めることができない、その高みには達せられないと考えました。
そうして、ワーグナーは西洋音楽の花形であるオペラで大成功をおさめました。それは彼を「歌劇の王」と呼ばしめるほどのものでした。
J.ブラームス(1833-1897)
交響曲第1番 ハ短調
交響曲第2番 ニ長調
交響曲第3番 ヘ長調
交響曲第4番 ホ短調
1853年にブラームスはシューマンを訪ねました。彼はピアノ・ソナタ第1番ハ長調を披露して、それを聞いたシューマンは絶賛しました。
ドイツ音楽の未来を担う天才が現れたと。
それから20年以上の歳月が流れて、1876年ブラームスは最初の交響曲第1番ハ短調を書き上げました。ブラームスの交響曲第1番は「第10交響曲」と呼ばれることがあります。
これはベートーヴェンの『第九』に続く交響曲という意味で言われます。しかし、決してベートーヴェンに似せた新しさのない曲という訳ではないでしょう。
「古きものを組み合わせて新しきものを創りあげる」という時代も地域も音楽にも限らない、創作というものへの姿勢がブラームスの音楽には見られます。
A.ブルックナー(1824-1896)
交響曲第4番 変ホ長調『ロマンティック』
交響曲第5番 変ロ長調
交響曲第7番 ホ長調
交響曲第8番 ハ短調
ブルックナーの生きた時代は、ワーグナー派かブラームス派かという論争が生まれていた。そこには政治的要因もあったのでしょう。
ブルックナーは、政治的なことには全くの無頓着でした。そんな彼は、純粋に音楽に向かいワーグナーのように新しい要素を取り入れて、
ブラームスのような回帰的な要素を取り入れた独創的な作品を書きました。
ブルックナーと出会ったワーグナーは、ベートーヴェンの交響曲には誰も匹敵し得ないという自らの考えを誤りとし、
「ブルックナーこそは楽聖に手が届く唯一の存在である」と述べています。
彼の長大な交響曲群は、第七番ホ長調と第八番ハ短調で頂点を迎えました。
その後、新たな交響曲第九番ニ短調を書き始めるのですが、未完成のまま彼は生涯を終えました。
G.マーラー(1860-1911)
交響曲第1番 ニ長調『巨人』
交響曲第2番 ハ短調『復活』
交響曲第6番 イ短調『悲劇的』
交響曲第7番 ホ短調『夜の歌』
交響曲第8番 変ホ長調『一千人の交響曲』
交響曲 イ短調『大地の歌』
交響曲第9番 ニ長調
交響曲第一番ニ長調『巨人』を起点に、大規模な交響曲を数々生み出しました。彼の最後の交響曲である第九番ニ長調は器楽曲の終着点ともいうべき作品となりました。
それは、これまでの交響曲の歴史すべてをまとめあげるかのようなものと新しい時代へ進んでいくものとの総合と思えます。
マーラーは、『第九』の運命を恐れていました。ロマン派の作曲家は交響曲を第9番より多く書いていないのです。ベートーヴェンも、シューベルトも、ブルックナーも。
そのため、交響曲第9番を書くのを恐れ、数字のついてない交響曲『大地の歌』を書きました。
そして、次は運命に向かうかのように交響曲第9番を書き上げて、交響曲第10番に向かいますが、作曲半ばにして生涯を閉じます。
マーラーの音楽に響く、生きる喜びと死そのもののような音はまさに一時代の極みでした。
伝統の終焉へ
ロマン派の時代では、作曲家たちが独自性を磨いたと書きましたが、それに続く現代ではより一層個人化が進み、形式から離れていきました。
交響曲も例に漏れず、時代とともに従来の形式から離れ、どんどん発展していきました。現代にも交響曲というジャンルは残っていますが、
内容的に大きな変貌を遂げたものとなっています。ソナタ形式の伝統に連なる交響曲作家としては、
ロマン派の後期から20世紀にかけて活躍したプロコフィエフ(1891-1953)とショスタコーヴィチ(1906-1975)が、今のところ最後の作曲家と言われています。
最後に
今回私たちが演奏するベートーヴェン交響曲第9番ニ短調は、交響曲の歴史という観点からみると、たくさんのルールのある「ソナタ」という形式の中で作曲され、
また絶対音楽が主流あった古典派交響曲から、「ソナタ」という形式から大きく発展していき、ロマン派交響曲へと繋ぐ架け橋であると言えるでしょう。
交響曲だというのに独奏者や合唱団がいる、当時の人々にとってこの作品は非常に大きな衝撃であったと思います。
交響曲がどういう作品なのか、そしてベートーヴェンの作品は交響曲の歴史の上でどこに位置する作品なのかをご理解する助けになれたら、この上ない喜びです。
次回の最終回では、ベートーヴェンの9つの交響曲について取り扱っていきたいと思います。
(文責:語学・学術部)