第4回 音楽と教会
こんにちは。特設ページ第3弾です。今回は「教会と音楽」をテーマに、少しばかり述べさせていただきます。
当団第49回定期演奏会の第1部にて、グレゴリオ聖歌から始まる教会音楽を4曲歌わせていただくので、以下をお読みいただき、演奏会をよりお楽しみいただけたら幸いです。
キリスト教の起源と音楽
キリスト教音楽の起源がどのようであったか、また、それがいつ頃、どのような形で成立されたかは、ほとんど判っていません。
しかし、キリスト教の教祖であるイエス自身が元はユダヤ教であったように、キリスト教のルーツを辿ると、その先にはユダヤ教が存在します。
キリスト教は突然発生した宗教ではなく、ユダヤ教の長い歴史を受け継いで、その延長上に発展した宗教なのです。
旧約聖書を開いてみると、いくつか楽器や歌などの記載があります。
たとえば、モーセとイスラエルの民が奇跡によって紅海を渡ったとき(出エジプト)。
追ってきたエジプト軍が波に呑みこまれるのを見て、彼らは主を賛美して歌を歌ったそうです。そのときの言葉とは次のようなものです。
―― 主に向かって歌え。
主は大いなる威光を現し、馬と乗り手を海に投げ込まれた。
(出エジプト記 15章21節)
イスラエルの民は嬉しいときも、悲しいときも大声を挙げて神に向かって歌ったと言われています。
では、現在のミサのような、正式な礼拝が行われるようになった起源はどこにあったのでしょうか?
いくつか旧約聖書に記述がありますが、「最後の晩餐」よりヨハネ以外の3つの福音書で述べられている記述をご紹介します。
―― 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。
「取って食べなさい。これは、わたしの体である。」
また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。
「皆、この杯から飲みなさい。これは罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」
(マタイによる福音書 26章26-28節)
この一節に関してはよく知っていらっしゃる方も多いのではないでしょうか。パンとブドウ酒は聖別されてキリストの肉と血、すなわち聖体となる。
その聖体を食することによって、人々はキリストと一体となって、罪の赦しを得ることができる。
これこそがユダヤ教にはない、キリスト教独自の基盤となり、これを再現する儀式が後に定着し、ミサとして確立していきました。
では、なぜミサで歌を歌うのか?
一説では、もともと歌う意味というのは、魅力的というところで、人の生活に根付いていたということもありますが、目に見えない存在とのコミュニケーションをとる手段としても考えられていたようです。
祈りのことばを唱える際に、口の中で呟くよりは、高らかに声をあげた方がはるかに神に喜ばれる、これは5世紀頃に活躍したアウグスティヌスも述べています。
以上のようなことが、後に引き継がれ、キリスト教と音楽は切っても切れない関係となりました。
グレゴリオ聖歌の誕生
グレゴリオ聖歌の誕生の前に、キリスト教の普及について述べたいと思います。
キリスト教の伝導には共通語としてラテン語が用いられました。したがって、礼拝や聖歌で歌われるのもラテン語が基本となりました。
しかし、当初は各地域で独自の典礼が行われたため、統一されたグレゴリオ聖歌となるのは後のことでした。
ちなみに、「旧約聖書」の原典はヘブライ語、「新約聖書」の原典はギリシア語で記されていますが、キリスト教の伝播にはラテン語が用いられるというのは、どうしてでしょうか?
「旧約聖書」はユダヤ教の原典であり、ヘブライ語を使用するユダヤ人のために書かれたものであるためヘブライ語で書かれました。
また、「新約聖書」は、聖書を書かれたのが、ギリシア・ペルシャの時代(多くの地域でギリシア語が公用語)からローマ帝国(ラテン語が公用語)への転換期で、
できるだけ多くの人に読んで欲しいということもあり、ギリシア語が用いられました。
そして、伝播された時代は、ローマ帝国期であったため、伝播にはラテン語が用いられました。
6世紀には教皇グレゴリウス1世が登場しました。彼は、各地各様のものであった典礼や聖歌を、はっきりと教皇公認のものに定め、統一を図りました。
当時は、ローマ聖歌と呼ばれていましたが、後に親しみを込めてグレゴリオ聖歌と呼ばれるようになったそうです。
ちなみに、「グレゴリオ聖歌」という名称を最初に用いたのは、教皇レオ4世(〜855)と言われています。
また、8世紀頃になると、グレゴリオ聖歌は着実にヨーロッパ全土に定着していくようになりました。
また、その背景には、教皇1人の権威だけでなく、教皇と組んだフランク王国の2人の国王であったピピン3世とカール大帝の一部武力的な力も働き、普及されていったとも言われています。
(出典:「キリスト教音楽の歴史 初代教会からJ.S.バッハまで」金澤正剛 日本キリスト教団出版局)
また、初期のグレゴリオ聖歌の楽譜は、ネウマ譜といったものでした。音程の動きは記されていますが、音の長さ等が記されていない楽譜です。
最初のうちは、旋律の動きを正確に書き留めることよりむしろ、言葉のアクセントやニュアンスを表記することに専念する傾向が見られたそうです。
また、残っているネウマ譜には地域差があり、各地の修道院や教会学校で知恵を絞って工夫したものであるそうです。
ちなみに、楽譜に音符の長さを示す記号が示されるようになったのは、13世紀半ばでした。ですが、この記譜法が用いられたのは、世俗音楽を書き記すためであったため、当初の教会音楽ではあまり用いられなかったようです。
ネウマ譜
宗教改革とその影響
キリスト教において、最も大きな事件というと、"宗教改革"があげられます。
では、宗教改革とは一体どのようなものだったのでしょうか? 初めに、ルターによる「信仰義認論」の再発見について述べたいと思います。
「信仰義認論」とは、新約聖書を記したパウロが最初に述べた記述です。
―― 人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、
わたしたちもイエス・キリストを信じました。これは、律法の実行ではなく、
キリストの信仰によって義としていただくためでした。
(ガラテヤの信徒への手紙 2章16節)
「義認」とは、神がある人を罪なき者として認め、救いをもたらしてくれることであり、ユダヤ教では律法の完全なる遵守により実現されると考えられていました。
パウロも必死にそれを守ろうとしましたが、人間がどんなに努力しても、自力の行為による救いなど不可能ではないのかという思いに行き当たってしまいました。
しかし、彼はキリスト教信仰によりこれを乗り越えました。キリスト教は、人間は罪あるものであり、したがって自分の努力によっては神に義(罪なき者)と認められない。
しかし、十字架上の死によってイエスが身代わりとなって罪を償ってくれたために、それを信じる者は、神が義と認めてくれるということなのです。
ルターはキリスト教の信仰において、この考えを再発見しました。ルターは、修道生活に積極的に取り組んでいましたが、修行や善行など自力の努力をいくら重ねても、救いを確信できず、苦しんでいました。
そんな時、聖書のパウロの手紙を読み、自分自身と重ねてしまいました。そんなときに、ローマ・カトリック教会がサン・ピエトロ大聖堂改修の資金集めのために、罪の赦しを約束する免罪符をドイツで販売し始めたのです。
これが、ルターにとって、信仰による義に反することでありました。
それまでは、教会は国家により支配され、宗派の選択ができなかったのですが、このルターの訴えから、宗教改革運動が広まり、信仰の自由を求める運動が各地で行われました。
その結果、ドイツでは、教会は国家からの自由が認められることとなりました。(アウクスブルクの和議)
各地でたくさんの宗教改革運動が起こった中で、ここではもう1つ取り上げて紹介したいと思います。
スイスのチューリッヒにて宗教改革を行った、ツヴィングリです。
ツヴィングリは、信仰を声に出して言ったり、実際に信仰を行動に示すのではなく、心の中(心の底)で唱えるものと提唱しました。
そのため、教会での聖歌を歌うことや、ミサの廃止を行いました。
また、宗教改革運動に対するローマ・カトリック教会の態度を明確にするため、トリエント公会議が開かれました。
そこでは、従来の教会音楽は音楽が複雑過ぎたため言葉がはっきりと聞こえないとされたため、厳しい批判がされました。
そのため、すべてのポリフォニー音楽(それぞれの声部が旋律をもって、平等に独立して演奏される当時の聖歌の様式)を排して、グレゴリオ聖歌のみによる礼拝が提案されました。
しかし、教皇マルチェリウス2世がパレストリーナに命じてミサ曲を書かせたところ、その作品が素晴らしいものであったため、誰もポリフォニー音楽の存続に異議を差し挟まなかったという有名な話もあるようです。
もしパレストリーナのようなこの時代の偉大な作曲家たちがいなければ、J.S.バッハやベートーヴェンなどの有名な作曲家が生まれることも、現在のような発展した音楽もなかったのかもしれません。
それだけこの宗教改革は、音楽の歴史においても、大きな出来事でありました。
終わりに
最後までご覧いただきありがとうございました。当団第49回定期演奏会に向けての特設ページも今回が最後となります。
それでは、皆さんの演奏会へのお越しを心よりお待ちしております。