作曲年 | 1799〜1800年 |
---|---|
初演 | 1800年4月2日 ウィーンブルク劇場 |
献呈 | ゴットフリート・フォン・スヴィーテン男爵 |
楽器編成 | Fl 2, Ob 2, Cl 2, Fg 2, Hr 2, Tp 2, Tim, 弦5部 |
ベートーヴェンの交響曲第1番は29歳のときに完成しています。彼は交響曲の作曲に関して、慎重にアプローチすべきだと考えていました。実際に、作曲を開始する1799年になるまで、ピアノ・ソナタや室内楽でさまざまな試みをして準備していました。注目すべきは、この試みはいずれもピアノを必ず使用していたということです。そこから彼の作曲家としての出発点はピアノにあると分かります。やはり幼いころからピアノを習っていたベートーヴェンにとってピアノという楽器は、まさに自分を表現することのできる楽器だったのでしょう。
交響曲第1番はハイドンとモーツァルトからの影響をかなり受けてはいますが、それでもこの曲には「ベートーヴェンらしさ」がちゃんと感じられます。それについて詳しくみていきましょう。
急緩急急の4楽章からなる第1交響曲では、ベートーヴェンが最も得意とした形式であるソナタ形式が、第1、第2、第4の3つの楽章で用いられています。
第3楽章は「メヌエット」ですが、「アレグロ・モルト・エ・ヴィヴァーチェ」という指示が与えられており、これはメヌエットにしては速すぎるテンポだと言えます。これは、どちらかというとむしろ「スケルツォ」に近く、「スケルツォ」が「メヌエット」に代わる前段階といえます。また、それ以降の作品と比べた際には、この作品のメヌエット楽章だけが、従来の古典派交響曲のソナタに則っています。
この作品の1番の魅力ともいえるのが、曲頭からいきなり転調(ヘ長調)で入ってくるという点です。これは従来のソナタという音楽形式にはないので、彼らしさというものが感じられる部分です。
作曲年 | 1801〜1802年 |
---|---|
初演 | 1803年4月5日 アン・デア・ウィーン劇場 |
献呈 | カール・フォン・リヒノフスキー侯爵 |
楽器編成 | Fl 2, Ob 2, Cl 2, Fg 2, Hr 2, Tp 2, Tim , 弦5部 |
ベートーヴェンは、ソナタから交響曲への拡張を、単に楽器編成の拡大とは考えてはなく、形式構造の面でも、明らかに拡張の意図をもって作曲していたものと思われます。これはWeb特設ページ第1回でも取り扱われていた、彼の作風の前期とされる1795年から1803年ごろまでの創作期の一大特徴ですが、この前期のライン上で、ピアノ協奏曲(1番と2番)や弦楽四重奏曲(作品18)が生まれ、そこから交響曲が構想されていました。従って、前期から中期へのベートーヴェンの作風の発展に比例して、交響曲に向かっての形式構造も発展していきます。第1番の後、続いて書かれたこの第2番は、そういった時期に作曲された作品なのです。第1番同様、第2番も詳しくみていくとしましょう。
急緩急急の楽章構成。第1、第4楽章が2あるいは4拍子なのに対して、第2楽章が8分の3拍子というのは第1番とよく似た形です。しかし調性の上では、「第1番」の方が下属調なのに対して、こちらは属調と対照的に書かれています。途中、第2主題からコーダへの推移の中で、この交響曲と同じニ長調で書かれたピアノ・ソナタ第15番『田園』の第2楽章(ニ短調)に出てくる楽想にそっくりな部分が聴かれるので、ちょっと牧歌的気分になります。
形式の上では規模をやや拡大しただけで、後はだいたい第1番と似たようなものと言えます。ただ第1楽章のアダージョ・モルト、4分の3拍子の序奏部が、第1番と比べて構成的にも内容的にも拡大されています。第2番の第3楽章では「メヌエット」ではなく「スケルツォ」となっています。またこの楽章ではベートーヴェン的なユーモアを感じることができます。中期に足を踏み入れたばかりの若々しさのある作品だと言えるでしょう。
作曲年 | 1802〜1804年 |
---|---|
初演 | 1804年12月 ロプコヴィッツ侯爵私邸 (非公開) 1805年4月7日 アン・デア・ウィーン劇場 |
献呈 | ロブコヴィッツ侯爵 |
楽器編成 | Fl 2, Ob 2, Cl 2, Fg 2, Hr 3, Tp 2, Tim , 弦5部 |
ベートーヴェンの交響曲第3番は、かれ自身の作曲家としての歴史においてのみならず、全音楽の歴史において、まことに記念碑的な意味をもつ作品です。そして彼の第2番から第3番への飛躍は、通常「奇跡」とよばれています。そして、初めの交響曲2曲にはほとんど逸話めいたものが何もなかったのに対して、第3番には、広く知られた逸話があります。ベートーヴェンが、ナポレオンの皇帝即位の報せを耳にして、「ボナパルトへ/ルイジ・ヴァン・ベートーヴェン」という献辞を記した「交響曲第3番」のスコアの表紙を引き破ってしまったというものです。
それまで、自由精神と人間解放の旗頭としてのナポレオンを高く評価し、彼の活動に期待注目していたベートーヴェンですが、結局はナポレオンもまた王道の野心に燃えた支配者の1人でしかなかったことを知って大いに怒り、「ある英雄の思い出を祭る」交響曲として、「シンフォニア・エロイカ」とイタリア語で献辞を書き改めたのです。
この交響曲は、前2作同様、急緩急急の4楽章構成ですが、各楽章の形式は極限まで拡張され、表現のスケールはまさに英雄的に壮大なものとなっています。
この交響曲で最も特徴的なのが、第2楽章の「葬送行進曲」です。2つの主題と長調の挿入部を持つこの楽章は、単純に1つの形式で書かれているものではなく、ソナタ形式とロンド形式を結びつけ、大規模で自由な楽想の拡がりが与えられています。
フィナーレにおける主要な基本形式は「主題と変奏」ですが、最終的には変奏曲形式、ソナタ形式、フーガの3形式が組み合わさっています。この構成は「第九」のフィナーレの下敷きになっていると言われています。
この第3番は前2作とそれほど時間も離れていないのにも関わらず、驚くべき完成度に達しています。そのため「エロイカ的飛躍」とも評されているのですが、、これはただスケールの抜本的拡大や内容の充実というだけではなく、作曲法における画期的な改革という面で、この曲は、ハイドン、モーツァルトの影響から脱したベートーヴェン独自の新領域の確立をも意味しているのです。
作曲年 | 1806年 |
---|---|
初演 | 1807年3月 ロプコヴィッツ侯爵私邸 |
献呈 | オッペルスドルフ侯爵 |
楽器編成 | Fl , Ob 2, Cl 2, Fg 2, Hr 3, Tp 2, Tim , 弦5部 |
この第4番の内容と関係があるかないかを立証することはできませんが、このころ彼の心には深く愛した女性がいました。それは、テレーゼ・フォン・ブルンスウィックという人物です。
1806年の夏、ベートーヴェンはブルンスウィック家の別荘できわめて楽しいひとときを過ごしました。テレーゼはかつてベートーヴェンにピアノを教えてもらった弟子でした。その別荘には彼女の兄のフランツという人物もいましたが、そのような中でベートーヴェンはテレーゼを深く愛し、またテレーゼもベートーヴェンを深く愛しました。2人の関係はこれ以上進行することもなく別れてしまうのですが、ベートーヴェンのテレーゼに対する愛情は非常に深いものであったのです。男性的で、意欲にあふれた第3番「エロイカ」の後に、どちらかというと保守的で、女性的な優美なムードの漂う第4番が作曲されたのには、そんな彼の恋愛事情が関わっていたのかもしれません。
それでは音楽的な内容にも触れていきましょう。急緩急急の4楽章で構成されたこの古典的な雰囲気のある交響曲では、「スケルツォ」とは明記されていませんが、明らかにスケルツォ楽章である第3楽章のトリオが、「ちょっとテンポをおとして」となっているのが興味深い点です。こうした形は、後にロマン派交響曲におけるスケルツォの定型のようになりました。また、ロマン派の先取りということでは、このスケルツォには、トリオが2回出てくるということが挙げられます。
ソナタ形式の第1楽章に続いて、ソナタ形式に則ってはいるけれども展開部のない第2楽章が続きます。このあたりは初期の作風を感じさせますが、活気に満ちて喜びはねまわるような楽想のフィナーレもソナタ形式です。ここには、第7番や第8番のフィナーレと、最初の2つの交響曲との間を埋める、ベートーヴェンの典型的なハッピーエンドの形がみられます。深刻重厚なベートーヴェンというのは、むしろ特別な状態なのではなかったのでしょうか?
(図:テレーゼの肖像)
作曲年 | 1803〜1808年 |
---|---|
初演 | 1808年12月22日 アン・デア・ウィーン劇場 |
献呈 | ロプコヴィッツ侯爵、ラズモフスキー伯爵 |
楽器編成 | Pic, Fl 2, Ob 2, Cl 2, Fg 2, Cfg, Hr 2, Tp 2, Tb 3, Tim , 弦5部 |
1808年に、第6番「田園」とともに初演されたこの「第5番」は、〈運命〉という題名と一緒になって、あまりにも有名なものです。ベートーヴェンはこの曲を38歳の円熟期に作り上げました。
この「第5番」の中には、音楽のすべての要素が透き間なく凝縮されて収められています。ベートーヴェンの音楽は、いずれも推敲が重ねられて無駄なものは含まれていませんが、この曲ほど見事に凝縮されているのも珍しいです。人間の喜怒哀楽の感情と、音楽の美しさとを融合させたこの曲は、確かに、人類の創造した芸術の中では最高ランクに属する輝きを放っているのです。
日本では「運命」という題名で親しまれていますが、この題名はベートーヴェンが付けたものではなく、曲の最初の4つの音符について、弟子のシントラーに「運命はこのように扉を叩く」と語った逸話によるとされています。しかし、かれは特に日本で知られていることで、他の国では「運命」という題名はあまり使われていません。とはいえ、耳の病に取り付かれたベートーヴェンが、生を選ぶことによって死神を追い払った強い意志の力を、この曲の中に見出すことは間違いではありません。ですが、それ以上に、この曲は「音楽」としての多くの魅力を持っています。
第5番の骨子になっているのは、最初の4つの音符であり、ベートーヴェンはそれまでの主役であった旋律の代わりに、旋律のもとになっている動機(モチーフ)を積み重ねることによって、より緊迫した音楽を作っています。
この曲の最初のスケッチは1803年、ベートーヴェンが33歳の時に書かれています。つまり、「英雄」交響曲を完成する前から曲想を練り始め、そして5年の歳月をかけて作り上げたのです。初演は彼の作品だけの演奏会で行われました。その時はハ短調のこの曲が「第6番」に、ヘ長調の「田園」が「第5番」として演奏されました。
(図:第5番を作曲していたころのベートーヴェン)
作曲年 | 1807〜08年 |
---|---|
初演 | 1808年12月22日 アン・デア・ウィーン劇場 |
献呈 | ロプコヴィッツ侯爵 |
楽器編成 | Pic (4楽章のみ)、Fl 2、Ob 2、Cl 2、Fg 2、Hr 2、Tp 2、Tb (4楽章のみ)、Tim (4楽章のみ)、弦5部 |
第5番とほとんど同時期に完成し、一緒に初演された「第6番」は、ベートーヴェン自身によって「田園」という標題が付けられているもので、描写的な内容が盛られた曲として親しまれています。この2曲は中期の作品に属しておりますが、両者の性格は全く異なっていて、第5番が自然や運命と人間との対立感に根ざしているとすれば、第6番は自然についての喜びと感謝の感情に満たされていると言えるでしょう。こういう対照的なものがいつも総合的に扱われていくのが、ベートーヴェンの特徴であり、また彼の創造力の偉大さを示すものです。
この曲についてベートーヴェン自身が語っています。
「この田園交響曲は、絵画的な描写ではない。田園での喜びが、人々の心の中に引き起こす、いくつかの感情を描いたものである」。
これからも分かるように、この「田園」は、後のロマン派の作曲家たちによる描写音楽や交響詩などのように、田園の風物を音で描いたものではなく、田園が人々に与える感情を交響曲という形式で現したものです。耳を患った後のベートーヴェンは、自然を最も愛していました。この曲を作った後で、彼は更にこう記しています。「田園にいれば、私の不幸な耳も、私をいじめない。そこでは樹が語りかけ、森の中では喜びを与えてくれる。これらをすべて表現することが出来るだろうか―」。
音楽的にみても、この「田園」は、第5番に劣らず新鮮な手法を、いたるところにみることが出来ます。これまでの通例であった4楽章の交響曲形式を、ここでは5楽章にしています。そして、第5番と同様に、第3楽章から第5楽章までを続けて演奏することによって音楽の表現をさらに大きなものにしています。また、5つの楽章には、それぞれ標題が付けられて、曲想を具体的に示しています。
1808年、ベートーヴェンが38歳の時に完成したこの「田園」交響曲は、その年の12月に交響曲第5番などと共に初演されました。その時の評判は悪く、なによりも曲が長すぎるのが指摘されています。それまでに交響曲でこれほど長時間なものはありませんでした。その点でも彼は革新的であったわけです。
(図:田園交響曲を作曲しているベートーヴェン)
作曲年 | 1811〜12年 |
---|---|
初演 | 1813年4月20日ルドルフ大公邸(非公開) 1813年12月8日ウィーン大学講堂 |
献呈 | フリース伯爵 |
楽器編成 | Fl 2、Ob 2、Cl 2、Fg 2、Hr 2、Tp 2、Tim 、弦5部 |
ワーグナーが「舞踏の賛歌」と評したこの第7番は、ベートーヴェンの9曲の交響曲の中でも、大変に特徴的です。全曲を一貫して鋭いリズムがこの交響曲を見事にまとめているのです。
ベートーヴェンは、交響曲第5番、第6番「田園」を作曲した後、名実ともにウィーンを代表する大作曲家として多忙な生活を送っていました。しかしそんな中でも彼は交響曲作品の作曲を止めることはありませんでした。この第7番の当時の評判は非常に高いものであったと言われています。1813年の12月8日に行われた、この作品の公開初演である「戦争傷病者のための慈善演奏会」では、観客から熱狂的に迎えられ、第2楽章はアンコールされたほどである。さらに、あまりの好評のため4日後に再演。翌年の1月には3度目の演奏が行われるなど、まさに当時の流行曲として、その後もしばしば演奏を重ねていきました。また1814年11月からウィーンで開催された列国会議の期間中にも演奏され、ヨーロッパの国々にこの作品の成功が伝えられました。
この作品が好評であった理由は、何よりも生命力にあふれた曲想と、独創的であった第5番、第6番と異なって、通例の交響曲のスタイルを踏襲しての明確な姿がわかりやすく、当時の聴衆に素直に受け入れられたのではないでしょうか。しかし、それらの表面の内側には、ベートーヴェン的な緻密な構成が重厚な響きとなって、今日でも新鮮な輝きを放っている。特に、人間の生命の源泉である心臓の動き、脈拍を思わすリズムの多様な変化によって推し進められる全曲の迫力は交響曲の中でも独特の魅力を持っています。
作曲年 | 1811〜12年 |
---|---|
初演 | 1813年4月20日ルドルフ大公邸(非公開) 1813年12月8日ウィーン大学講堂 |
献呈 | 献呈されず |
楽器編成 | Fl 2、Ob 2、Cl 2、Fg 2、Hr 2、Tp 2、Tim 、弦5部 |
彼の作風を交響曲という観点から眺めていくと、第3番から第6番に至る4曲が中期に属しており、一方第9番は後期に属しています。そして第7番と第8番の2つの交響曲は、中期から後期への過渡期に属するものと考えられます。この過渡期はおよそ1809年から1815年までのあいだと考えられていますが、この間において彼の創作力は多少の減退を示し、またその作風の上にも過渡的兆候を示しています。
そのようなときに完成したこの第8番は、9曲の交響曲の中では規模が最も小さいものであり、演奏される頻度も少ない作品ではありますが、かれ自身は最も満足していた作品です。その根拠として、この曲を作った当時の思い出につながるものかもしれません。
彼は1812年、第7番を完成させた後に「不滅の恋人」と目されているアマリア・ゼイバルドにあっています。本当にベートーヴェンにとっての「不滅の恋人」なのかどうかは確かめられていませんが、ゼイバルドとともに過ごしたこのころは、彼にとって極めて幸福な一時期であったことは確かなようです。そして、第7番を作曲していたときから温めていた新しい交響曲を、彼としては珍しく短い期間で一気に書き上げました。
第8番は緩やかな楽章を持ってはいません。かと言ってベートーヴェン的な激しい曲想もなく、全体が簡素で、むしろ優雅な味わいすら感じられます。曲そのものは30分にも満たないものではありますが、内容的には決して単純ではなく、その緻密な構成ゆえにベートーヴェンの最高傑作とする人も少なくありません。
作曲年 | 1822〜24年 |
---|---|
初演 | 1824年5月7日ウィーン、ケルントナートーア劇場 |
献呈 | プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世 |
楽器編成 | Fl 2、Ob 2、Cl 2、Fg 2、Cfg (4楽章のみ、)Hr 2、Tp 4、Tb 3(2、4楽章のみ)、Tim 、Trg (4楽章のみ)、Cym (4楽章のみ)、大太鼓 (4楽章のみ)、弦5部、4楽章ではS、A、T、B各独唱と混声四部合唱 |
ベートーヴェンの第九交響曲が、彼の後期すなわち晩年期を代表する大作であるだけでなく、音楽史上最大、最高の傑作として人々から愛好されているのは、もはや言うまでもないでしょう。この作品について話をするためにも、まずは彼と、甥のカールについてみていきたいと思います。
1815年11月15日、ベートーヴェンの弟カールは、年少の息子を残して死んでしまいます。この息子もまたカールと呼ばれていました。カールは自分の死に際して、ベートーヴェンに息子のことを託していました。ベートーヴェンはその願いをしっかりと受け止め、そのために、浪費が激しく、また子育てをやらない母からカールを守るべく訴訟を起こしました。その結果は後見人として彼の権利も認められ、さらには母親を後見人からはずすことまで行いました。しかし、そんなベートーヴェンの想いとは裏腹に、カールはやはり母親を慕い、常にベートーヴェンの手から逃れようとしていました。そして成長と共に、悪い友達を作り、酒場に出入りするようになりました。こうしてふたりは絶え間なく口論するようになりましたが、ある時とうとうカールはピストル自殺を計ります。それは未遂に終わりましたが、そのことはベートーヴェンに非常に大きなショックを与えることになりました。
カールとベートーヴェンとのこのような関係は、とても悲惨な出来事ではありましたが、しかしなぜ、ベートーヴェンはこのように深く、カールとの関係を追及していったのでしょうか?そこにはやはり、彼の人間性が関係してくるでしょう。ベートーヴェンはその生涯を通じて、家族の幸福や、家庭の愛情に最も恵まれない人のひとりであったと言えます。少年時代は大酒家の父に悩まされ、青年、壮年の時代は、常によき結婚を望んではいましたが、これを得ることもできず、その希望は40歳を過ぎるころからいっそう強くなりましたけれども、ついに寂しい独身生活を送らなければなりませんでした。彼の唯一の喜劇「フィデリオ」によっても分かるように、彼は清い夫婦の愛情を極めて高く評価していました。そしてかれ自身もそれを持つことを常に希望していたのです。こうしてその青年、壮年時代を過ごしたベートーヴェンは晩年に進むにつれて、結婚をあきらめたとはいえ、なんらかの形でその心のうちに父性愛が目覚めてきたのではないでしょうか。
彼の心の内に目覚めつつあったその父性愛は、年少なカールが与えられることによって急激に深まり増大していきました。そして父親としての責任感と愛情は、直接にはカールに向けられていましたが、彼の偉大な魂は、それを通してそれを全人類へと拡充していったのです。つまり、カールに向けられた愛情と責任感が、彼の内面では全人類に対する愛情と責任感に変わっていったのです。そしてそれがシラーの"An die Freude"の詩を用いた交響曲の作曲へと向かって行きました。
彼は「第九」を書いた時に、「われわれが欲しそして感ずること、すなわち高潔な人間の最も本質的な要求にのみ芸術形式を与えること」と記しています。これはまさに第九の本質を述べていると言えるでしょう。
ベートーヴェンが作り上げた9つの交響曲は、古典派交響曲の発展と、ロマン派音楽の誕生という2つの偉業を果たしました。1番から9番までを順番に聴いていくと、その経過を感じることが出来ます。もしお時間があるようでしたら、ベートーヴェンの交響曲を順番に聴くことをおすすめします。そうしてから私どもの演奏会にお越しいただければより楽しめることかと思います。
最後までお読みいただき、誠にありがとうございました!
学術一同
交響曲
壱岐邦雄ら,音楽之友社
ベートーヴェン交響曲1(フルスコア)
諸井誠(解説),全音楽出版社
ベートーヴェン交響曲2(フルスコア)
諸井(解説),全音楽出版社
ベートーヴェン交響曲3(フルスコア)
諸井(解説),全音楽出版社
ベートーヴェン交響曲4(フルスコア)
諸井(解説),全音楽出版社
ベートーヴェン交響曲5(フルスコア)
諸井誠(解説),全音楽出版社
ベートーヴェン交響曲6(フルスコア)
諸井(解説),全音楽出版社
ベートーヴェン交響曲7(フルスコア)
諸井(解説),全音楽出版社
ベートーヴェン交響曲8(フルスコア)
諸井(解説),全音楽出版社
ベートーヴェン交響曲9(フルスコア)
諸井(解説),全音楽出版社